いつもより早く、目が覚めた
翌朝は日曜日でした。
学校も習い事もない、本来なら朝寝坊が許される日。なのに、みみちゃんはいつもより早く目を覚ましました。
起きてきたかと思うと、自分から机に向かっています。
昨夜、おばあちゃんから受け取ったバトンを。理事長先生との、あの握手の温度を。この子はまだ、手のひらの中に握りしめているのかもしれない。
その背中を見て、私はただ、静かに息を吸いました。
鉛筆が、紙の上を走る音がする。消しゴムをかける音がする。また、鉛筆が走る。
それだけの、静かな朝でした。
「何をすればいい?」
けれども、正直に言えば、みみちゃんは途方に暮れていました。
机の前に座って、ノートを開いて。でも、鉛筆が動かない。やる気はある。覚悟もある。でも、何から始めればいいのか、まったく分からない。そこで、とりあえず何かしようと、まずは学校の宿題に取りかかっていたようです。
「お母さん、何をすればいい?」
その一言を聞いて、私は迷わず動きました。
本棚から、5冊の問題集を取り出します。
漢字の本、1冊。計算の本、1冊。読解の本、1冊。算数の小問集合に特化した問題集、1冊。そして、社会の本、1冊。
みみちゃんが首をかしげます。
「社会も?」
「そう。社会の点数のためじゃないよ。国語の読解文を読むとき、知っていることが多ければ多いほど、文章が頭に入りやすくなるから」
5冊とも、今のみみちゃんでも、すらすら解けるレベルのものを選びました。
時間がない。だから、難しいものを。そう考えるのは、実は間違いです。
焦って背伸びをしても、土台が崩れるだけ。今、みみちゃんに必要なのは「できた」という小さな成功体験を、毎日積み重ねること。プロとして、私はその事実をよく知っていました。
3つの約束
問題集を手渡しながら、私はみみちゃんと約束をします。
3つだけ。でも、この3つだけは、絶対に守ること。
ひとつ。日割りにして、毎日必ず続けること。
ふたつ。違う本に手を出さず、同じ本を何度も繰り返すこと。
みっつ。間違えた問題は、その日のうちに、まっさらの状態から正解にたどり着けるようにすること。
みみちゃんは、真剣な顔でうなずきました。
その横で、おばあちゃんが静かに微笑んでいました。
遠くから、見守る人
その日の午後、みみちゃんが勉強している部屋の外で、おばあちゃんがそっと立ち止まる姿を見かけました。
ドアの隙間から、机に向かう孫の背中を、じっと見つめている。
声をかけるわけでもなく。邪魔をするわけでもなく。ただ、そこにいる。
抗がん剤で辛いはずの体を、それでも起こして。孫が勉強している、その空気を、自分の肺に吸い込むように。
私と目が合うと、おばあちゃんは小さくうなずきました。
言葉はありませんでした。でも、その眼差しの中に、全てがありました。
この子を、頼んだよ。
私は静かにうなずき返しました。
3日に一度届いた、魔法の言葉
勉強が始まってから、私はみみちゃんに3日に一度、手書きのメッセージを書いて渡すようにしました。
最初のメッセージにはこう書きました。
「困難は分割せよ、あせってはなりません」
「小さな『できること』を見つけてコツコツやっていけば、どんな大きな困難も必ず乗り越えられます」
かつて私が数学の講義でデカルトの言葉として出会った、この魔法のフレーズを、今の娘に贈りました。
そして、
「大丈夫!みみちゃんなら必ずできます!!」
「苦しいとき、つらいときほど笑顔で😊」
おばあちゃんの「辛いときこそ、笑いなさい」という言葉が、形を変えて、具体性を伴って、この子の手元に届いていきました。
みみちゃんはそのメッセージを、問題集の横に置いて勉強を続けます。
その夜、おばあちゃんがみみちゃんに聞きました。
「今日はできた?」
「うん」
「そっか。えらいな」
しばらく沈黙が続いた後、おばあちゃんはみみちゃんの背中をそっとなでながら、小さくつぶやきました。
「この子は……すごい子になるのかもしれんな」
誰に言うでもなく。ただ、自分の胸の中に落とすように。
その言葉を、私はたまたま聞いていました。
病気のおばあちゃんにも優しく寄り添える心がある。おばあちゃん譲りのユーモアで、どんな場面でも周りを和ませる明るさがある。そして、理不尽に傷つけられても折れなかった、一本の芯がある。
この子に足りなかったのは、才能でも、根性でも、運でもない。ただ一つ、「勉強するスキル」だけだったのです。
それさえ手に入れれば、鬼に金棒。
私はそう確信していました。だから、怖くなかった。偏差値20台という数字も、残り50日という時間も。
この子なら、必ず奇跡を起こせる。
私のプロとしての経験が、そして、数々の逆境を笑顔で乗り越えてきたおばあちゃんの目が、そう言っていました。
そして、立ち向かうみみちゃんの姿がおばあちゃんの「生きる力」となり、おばあちゃんの「えらいな」の言葉が、また翌朝みみちゃんを机に向かわせる「原動力」となっていったのです。
あの日、娘に授けた『困難を分割する技術』や、三つの約束の具体的な守らせ方は、こちらで詳しく解説しています。



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